Harmonic Mnemonic

昨日の自分から今日を学ぶために

EP02470 切り崩された物語

「それで、あんたは何処から来よったん?」

婦人は私に尋ねる。私は返答に困る。それは『何処』という言葉の意味の重さが、私と彼女では大きく異なるということを、なんとなく感じていたからだ。

広いダイニングキッチンには私と彼女しかいない。長机を挟んで私に話しかける彼女。オーク材で出来ていると思われる大きな長机は、2人が向かい合う場所としては広すぎる。きっと昔は、彼女の家族たちがこの大きな机で食卓を囲んでいたんだろう。

長机に組んだ腕を置き、彼女は私の話に耳を傾ける。私の話を一頻り聞いた後、彼女は再び語りだす。

「へえぇ、東京ねぇ。うちの子も1人、今は東京に行っちゃった。東京の専門学校に通っとるんだけどね、もう帰ってこないんだろうなって、思ってるからね。」彼女は懐かしむように話を続ける。「私はね、生まれてからずっと、沖縄で育ってきたんだけどね。沖縄は色々あったからねぇ。色んな国に占領されて、こんな歌があるんだけどね、

唐の世(ゆ)から大和の世
大和の世からアメリカの世
アメリカの世からまた大和の世

それでも今ままで、負けずにずっと頑張ってきたんよ。」

彼女は淡々と歌い、淡々と語った。彼女の物語の舞台は、彼女の育った場所である。

私は考える、自分は何処で生まれたのかと、何処で育っていくのかと。私の物語の舞台はどこなのだろう。

 

 

『美徳なき時代』で知られるスコットランド出身の哲学者、アラスデア・マッキンタイアは、「善い生は個人の伝統的秩序における『物語』に依って決まる」と主張する。

人は生まれた家庭・場所・国、それらを感じ、それぞれの役割を自覚するからこそ、それに伴って善悪を判断する。役割としての使命を果たすことは善であると考える。

1世紀ほど前は、国や地域の方針そのものが大きな物語であったように感じる。登場人物の民は各々が小さな物語を持ち、皆でその大きな物語を作り上げようとしていたのではないか。

私の目の前に座る彼女の物語は沖縄が舞台だ。

 

私の物語は、どこが舞台のどんなストーリーなんだろう。

 

近代化、技術革新、個人主義、それらは大きな物語を切り崩した。本の背は裁断され、バラバラになり、順番もわからなくなってしまった。現代は、散らばり重なった紙の上を、人々が彷徨う時代である。

インターネットが世界中の情報を届けて来るようになってしまったのならば、我々の物語は無意識に世界を舞台として想定する必要があるのかもしれない。果たして、世界を舞台とした物語の中で、自分が主人公で居続けられるのか居続けられないのか、それはもうわからないが。。

 

私は1人旅が好きだ、放浪が好きだ。ある場所を観光するのではなく、ある場所で生活をするのが好きだ。生活をしていると、自分にあり得たかもしれない別の自分を感じる。別の場所で生まれ暮らしていたかもしれない別の自分と重なることができる。

 

実際は、もしかしたら世界のどこかで本当に自分と会ってしまうのではないかと期待してたりする。この世界にはこんなに沢山の人がいる。世界中のどこかにもう1人くらい別の自分がいてもおかしくないのではないか、いや、おかしいのかな。。

世界のどこかで生きている君が、この物語を最後まで書き上げてくれるんじゃないかと期待しているよ。まだよくわからないけれど、私は私なりに書き残しておくから、君も君なりに、どうか続きを綴って欲しい。

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